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美容室に行った。
美容室といえば、かつてはカリスマ美容師という言葉まで生まれ、なりたい職業のベストテン入りを果たし、オシャレ職業の代表格とされていた。そんな敷き居の高い美容室である。その空間に足を踏み入れるだけでオシャレさんに一歩近付ける気分になったものだ。
当時は有名な美容室のカリスマ美容師に髪を切ってもらうというのがステータスであり、予約しても何か月も待たなければいけないという信じられない状況であったのだ。何ヶ月も待ってるうちに髪が伸びてしまうので、結局その間に他の美容室に行っておかなければならないということになり、たいへん理不尽なものだ。ラーメン屋の行列に何時間も並んでいるうちにお腹が空いてしまい、カップラーメンでも食べてしまうようなものだ。
しかし、カリスマブームも過ぎ去ってしまった今、少年のなりたい職業第一位が「学者」となってしまった今、原宿・青山・表参道あたりを歩いていれば美容師に当たると言われている今、美容師見習いに当たってしまうとカットモデルをしつこく頼まれる今、見習いなどのカットモデルになってしまえば悲しい結果が訪れると百も承知の今、美容室に行くことごときで何が緊張する必要があろうか。
そう、今では美容室に行くなどたいしたことではない。むしろ美容室に行くのなんて、ファッション雑誌を読むためであり、映画や音楽の話ばかりする美容師と取り留めのない会話をするためであり、暇つぶしに行くようなものだ。
しかし今回の私は非常に緊張していたのだ。美容室に行くという決心しただけで心拍数があがってしまっていたのだ。なぜそんな事態に陥ってしまったのかと言うと…。
初めて行く美容室だからだ。
今までは私もオシャレな若者の仲間入りをし、カリスマ美容師時代の余韻を引きずりつつ、表参道にある有名な美容室に行ってたものだ。担当の美容師どころかアシスタントの若い子とも親しくなり、表参道のお店の近くを歩くと、美容室のスタッフの誰かに会ってしまうのではと無駄にビクビクしていたものだ。
だが、不幸にもその担当の美容師が辞めてしまったのだ。よく美容室ではあることだが、店鋪を移動したり、他店から引き抜きがあったり、腕を上げて独立したりとか、そういうことは日常茶飯事だ。
しかしそうではない。彼女は美容師という職業を辞めてしまったのだ。表参道という美容師たちの憧れの地での輝かしい栄光を捨て、彼女の生まれ故郷である栃木、かろうじて首都圏内に食い込んでいる中途半端な地域・栃木へ引っ込んでしまったのだ。
悲しいではないか。何十人、何百人もの客の担当をし、まだまだ現役で将来有望であった美容師が辞めるのだ。客たちからはオシャレの憧れの的としてあがめられ、同じ美容室の後輩たちからは「先輩のようになりたい」と、毎日その技術を盗むためひとつひとつの動きを注目され、彼女に呼ばれれば新人同士で先を急いで彼女の元へ走ったものだ。
美容師としてはむしろベテランの域に達しながらも、まだまだ若く有能な彼女が辞めるなんて考えられないことだ。山口百恵がマイクをステージに置いたようなものだ。キャンディーズが「普通の女の子に戻りたい」と言ったようなものだ。長島茂雄が「巨人軍は永遠に不滅です」と残したようなものだ。YAWARAちゃんが「田村」という姓を捨てて「谷亮子」でオリンピックに出てしまうようなものだ。
SPEEDが解散して、それぞれソロ活動したのに全員が全員あまり振わず、ウダウダダラダラと一日限りのチャリティコンサートをやったり、 Save the Childrenチャリティライブをやったり、そのCDやらDVDやら発売してちゃっかり稼いじゃったり、結局再結成したようなものか。
仁絵が黒人気取りだってことか。
しかしそんな売れっ子美容師が辞めるというのだ。やはり悲しいではないか。背中が小さいではないか。肩を震わせて泣いているのではないか。誰もいないとわかっていてもマンションの部屋に帰ったら「ただいま」と言ってしまうのではないか。
きっと何かトラブルがあったに違いない。
毎日彼女を指名して訪れる客たちの前では屈託のない笑みを浮かべ、美容師という仕事を楽しんでいるようだったが、その裏では客ごときには知らない何かがあったに違いない。
店の人気美容師としての立場の重荷に耐えられなくなったか。ベテランの仲間入りをしてしまい、おばちゃんパーマばかりやらされていやになってしまったのか。美容師仲間同士で恋のいざこざがあったのか。 むしろ客に手を出してしまったのか。いや客同士が彼女を取り合いしてしまい血を見てしまったのか。喧嘩はやめて、私のために争わないでってことか。
とにかく数いる客のひとりというだけの私には彼女の引退の真相はわからない。私がこんなに思い悩んだところで彼女は戻ってこないのだ。1ヶ月前に彼女に切ってもらった髪の毛を触って思い出を噛み締めても仕方ないのだ。
前向きに考えなければならない。過去を悔やんでいても何も始まらない。彼女には何も言わず心で応援してあげるべきなんだ。栃木の農家で土にまみれてもオシャレを忘れないでと応援してあげればいいんだ。
というわけで彼女を失った今、私は自分のことを考えなくてはならない。そう、誰に髪を切ってもらうかだ。
彼女がいた美容室に行くというのが手っ取り早いかもしれない。馴染みの人たちも働いてるわけだし、なによりポイントだってたまっている。ポイントを使えばトリートメントなどを無料でやってくれる。しかし、彼女に最後に切ってもらったとき、彼女から他の美容師を紹介してくれるということがなかったのだ。辞めるとなれば、同じ美容室内で他の美容師を次の担当にするために、彼女自身が紹介してくれるってことが普通であろう。しかし、彼女はそういったアクションは何も起こさず、ただ別れを惜しんでいただけなのだ。
ということはどういうことが考えられるか。

「この引退劇、おだやかではないな」
ということだ。
おそらく普通に辞めなかったに違いない。店長ともめた末、強行で辞めたのかもしれない。さすがに色恋ざたともなれば他の仲間たちにも後ろめたさを感じて辞めて行ったのかもしれない。
そうなると、私はどうするべきか。その美容室を訪れて以来彼女だけに頼ってきた私はどうするべきか。
「彼女と共に戦おう」
そう、私の取るべき行動はひとつだ。私は何があったって彼女の味方だ。彼女に何百万の敵が向かってこようと私だけは決して背中を向けず、彼女を守り、共に戦う覚悟だ。愛しいしとを守るためにはこの身をも捧げるつもりだ。私たちは信頼すべく旅の仲間なんだ。
そんな私が、彼女の古巣で憎々しい敵たちの世話になどなるものか。
こっちから願い下げだ!
で、仕方ないので次に行く美容室を探すことにした。
しかし実際、美容室と言えば、うさんくさい人種が集まる特殊な空間である。何を考えているのかはかり知れない偽善じみた空気が漂いまくっているのだ。そんな美容室であるから、その選択は今後の美容室通いの人生を大きく左右する。一度美容室選びに失敗してしまっては、次に行く店はまた再び新しいところを探すはめになり、なかなか落ち着けず毎月美容室選びに頭を悩まさなくてはならなくなる。
そもそも美容室と言うとなぜあんなに揃いも揃って独特な空気をかもしだしているのだろう。そしてその中でも特におかしいのは新人美容師だ。
まだカットどころか、ブローもカラーもやらせてもらえない新人たちである。彼らの役目と言えばシャンプー、マッサージと言った至極どうでもいい役回りだ。
話し慣れた担当の美容師から新人にバトンタッチされた瞬間、なんだかくすぐったい微妙な気持ちに陥りやすい。なぜならちょっと上から見てしまうからだ。
「シャンプーのほう変わらせていただきます」
と言ってやってきた新人に対し、「あなたのステップアップのために練習台として頭を提供してあげる」というぐらい高飛車な気分になってしまうものだ。
しかしこっちがそんな軽い気持ちでシャンプー台に座っているのにもかかわらず、新人美容師はシャンプーこそが晴れ舞台であり、客をシャンプー台に座らせて「椅子を倒します」と言った瞬間こそ彼らがスタートラインに立つ時なのだ。
したがって、新人美容師たちはたかがシャンプーであっても必死である。顔に布を置かれ、呼吸がままならない状態であるというのに、ここぞとばかりに話し掛けてくる。
そう、彼らにしてみれば客とマンツーマンで話せる機会はシャンプーの時しかない。カラーやパーマのアシスタントなどをしてる時などは、客と話すのは担当の先輩美容師であって、アシスタントの新人はただその話を聞きながら微笑んでいるだけだ。客と先輩が笑えば一緒に笑い、苦労話をすれば眉間に皺をよせながらうなずき、恋の話になれば頬を赤らめ、決して口出しはせず表情と相槌だけでその場の空気に溶け込まなければならない。
とにかく新人が客と熱く話せるのはシャンプー台という場所に連行してきた時なのだ。しかもシャンプー台となっては雑誌を読むこともできなければ、動きも制限されてしまい、客を独占できる絶好のチャンスなのだ。だからとにかく彼らはその短い時間の間にありったけの会話を盛り上げようとする。仰向けにされ、布に口元を覆われていて物凄く話しづらい状態である相手に対し、その攻撃の手を緩めないのだ。
「お仕事は何されてるんですか?」
「もごもごもごもごもご(デザイン関係です)」
「え〜すごーい、デザインって言うと服とかですか?」
「もご、もごもごもご。もごもごもごもご(いや、そうじゃなくて。DTPのほうです)」
「へーDTPですかー」
「もご(はい)」
「……………DTP…??」
「………………」
「…………………」
「……………………」
「今日はこれからお出かけですか?」
「もご、もごもごもごもご(いえ、帰るだけです)」
「あーそうなんですか。じゃあ時間とか気になんなくて安心ですね」
「もご(はい)」
「………………」
「…………………」
「……………………」
「………………………」
「…………………………」
「……………………………」
「ラストサムライ観ました?」
「もご、もごもご」
「え?」
「もごもごもご(観てません)」
「あたし観たんですよー、すごい良かったですよー。渡辺謙がほんとかっこよくてー」
「ぼそぼそぼそぼそぼそぼそ(みんな同じこと言ってるよ)」
「え?」
「もご、もごもごもごもご(いや、観たいですね)」
「絶対観た方がいいですよー。超お薦めですー」
「ぼそ、ぼそぼそぼそぼそぼそぼそぼそぼそ(そりゃ、アカデミー賞ノミネートしてるくらいだからね。わざわざあなたにお薦めされなくてもね)」
「え?」
「もご、もごもごもご(いや、いいですね)」
「はーい、ほんとにー。号泣しちゃいますよー」
「………………」
「…………………」
「……………………」
「………………………」
「…………………………」
「お湯加減いかがですか?」
「もごもごもご(ちょうどいいです)」
「はーい。力加減はいかがですか」
「もごもごもご(いい感じです)」
「はーい。流したりな…」
「ぼそぼそぼそぼそ(とにかく「はい」「いいえ」で答えさせてください)」
「え?熱かったですか?」
「いえ、そんなことありません」
「………………………」
「………………………」
「はーい。おつかれさまでしたー」
ほんと疲れました。
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